神楽坂

友人の舞台を観に行った。頼んでおいた花束を受け取ってから駅へ向かう。花束はあげる側も楽しい。手元に残らない花束でもきれいに出来上がっていると嬉しい。スカビオサという花の名前を新たに知った。

生の身体のエネルギー量に圧倒される。友人のダンス、これが「華がある」ってやつかなと思った。プロで舞台に出ていた人なのだなと思った。

ソロ公演のほうは、好きなとこも色々あったけど、厳格な型のないダンスにだってクオリティってものは厳然としてそこにあるよと思った。ロンドンで見た個人アーティストのパフォーマンスを思い出した。ロンドンと比べるまでもなく、プロジェクト作品と比べたって作り込み度合いが全然違う気がした。自分の好き嫌いをクオリティの話にすり替えているだけかもしれない。私はダンスに対して距離が取れない。

それから、この人たちはこんなに身体が動く、素人のそれではない、のに、働きながら踊っている?それも一つの形として可能であるべきだけれど、ダンサーだけで食べていけるとしても他の仕事をしたい方々なのだろうか。それとも?など、彼女たちの事情はともかくも、構造としては分かりきっていることを、また考えたりしていた。日本で踊るというのは、。

 

このパラグラフは椅子が硬くて疲れたので八つ当たりで書いた文章です。いわゆる「劇場」っぽくないパフォーマンス空間も好きだけれど、そういう場所は往々にして椅子が硬い。椅子が硬いという点だけは「どういう思想でやっているのか」と問い詰めたい。観客が舞台上の世界観に没頭しすぎること、登場人物に感情移入しすぎることを批判したブレヒトですら、心地よい状態で観劇できる環境が必要だと言っている。観客をうっとりさせることだけが芸術ではないけれど、たとえ居心地悪くさせたい場合でも、それは作品の中身でやることであって、椅子の硬さでやることではないと思う。というか十中八九そこまで考えて硬い椅子を選んでいるわけではないと思うけど。なんでもいいけど作品に集中させろや。

 

お腹がすきすぎて喫茶店に入った。入るのにちょっと勇気がいりそうな、個人経営の喫茶店とか定食屋さんは、(特に母方の)祖父母の家の雰囲気があって好き。空間も、私の後ろから聞こえてくるお店の老夫婦の話し声も。母方の祖父母の家は売り払ってしまってもうない。

私からは見えない角度にテレビが置いてあって、孤高のグルメが流れていた。それがなんだかいたく気に入って、作業中にラジオ的に聞くのに良さそうだと思った。でもあの場所で聞いたからこそよかったのかもしれない。

こんなご時世は風呂場と別にシャワー室のある家に住みたい。帰宅時間がかぶると風呂が渋滞するので最寄りのイオンで待つ。ふらふらと歩いて1時間くらい経ってしまったので無為な疲れ方をした。